バングラデシュ報告(1)
3月15〜23日、バングラデシュのマイメイシン聾学校を中心に、視察に出かけてきました。このプロジェクトは、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)の援助によるもので、聾学校、特に補聴・聴能に関する支援を考えることが目的でした。ぜひ、JOCSの他の活動にも触れてみて下さい。特にJOCSが出版している「みんなで生きる」4月号には、荒井真理先生の「バングラデシュにおける聴覚障害児教育の現場から」が掲載されています(1部送料込み300円)。入手は下記にご相談願います。
社団法人 日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)
東京事務局 〒169-0051 新宿区西早稲田 2-3-18-33 TEL:03-3208-2416 FAX:03-3232-6922
大阪事務局 〒530-0013 大阪市北区茶屋町 2-30 TEL:06-6359-7277 FAX:06-6359-7278
3月16日
ダッカの3月は暑かった。
飛行機を降りると熱気がムワっとおそってくる。誰が本当の入国管理官なのかがわからないぐらいにイミグレーションのカウンターに男が複数立っている。私の前のタイから来た女性は、パスポートになにかの問題があったのか、ブースの人から質問を受けていた。空港では柴田さんの出迎えを受けた。JOCSバングラデシュで助産婦として活動されておられるワーカーである。移動車、三菱パジェロの車内はエアコンがきいていて実に快適だが、外気温計は39度をさしていた。暑いはずである。
空港から右折をすると大通りに出る。力車。人がこぐ自転車の後ろに人力車のような乗り場が付いている。ダッカでも、「リキシャ」と呼ぶ。日本語が語源ではないかというリキシャは、行き先を告げ、料金を交渉することが必要だ。ベビー。自転車の代わりにオートバイが付いている。タクシーというものが少ないダッカで、このリキシャとベビーが主要な市民の足である。どちらのドライバーも英語が通じないと言う。海外旅行での私の趣味、一人で街を散歩することは、どうも難しいかも知れない。ダッカの地図は手元にないし、地元の人は地図を見る習慣がないという。一度、道に迷ったら帰るすべがなくなる。
車窓からはダッカ郊外の人々の住まいが見えてくる。洪水の跡というべき涸れた水路が広がり、その中央の丘のような部分に家が建っているのが見える。ちょうど、水涸れのお堀と城といった感じだが、そんな情緒気分ではなく、車内では先だって押し寄せた大洪水の被害の大きさが話題になっていた。
丸と三角と四角があしらわれたデザインのおもしろい建物が左手に見える。「これが国会議事堂。右手に見える警備が厳しそうな建物が大統領官邸」と柴田さんが教えてくれた。この時期、SSCと呼ばれるちょうど中学校卒業認定試験のようなものが行われているそうだ。この試験の結果は、将来を決定づけてしまうほどに重要な試験であり、その試験の遂行に国民は協力的であり、このために、官邸近くでのデモが行われていないのだという説明を聞く。次の交差点を左折。300mほど先でUターン、左折後すぐ右手にJOCSダッカハウスがあった。ダッカハウスでは私のために風呂・トイレ付きの個室があてがわれ、またクーラーも付いているなど、想像と反して滞在に苦労することはないようである。
着後、今回、ベンガル語と日本語の通訳の労をとってくださることになった金沢真実さん、柴田さん、今回、随伴していただける日本聾話学校の畑喜代子先生の4人でスケジュール確認を行う。
冷やし中華の晩飯を頂戴する。衣住に続き、食も夏である。シンガポール産のビールを傾ける頃には 兼松の酒井さんの話に夢中になった。ベンガルを愛する商社マンは、ベンガルでの生活の厳しさとベンガルの人々への親愛を、時に照れを隠すような語り口で私に照射してくれた。その地にはその地の生き方がある、そこにはその地の価値とその地の生き様がある。教育も、中でも障害児教育の、障害児者が生きていくストラテジーには、社会における「人の生き様に対する価値観の持ち方」が大きく影響を与える。今日、ダッカハウスに向かう途中、一人の足のない障害者が車に近づき、ドアをたたき、物乞いをする場面に出会った。あるいはドライバーが交通事故を起こし歩行者を事故死させようものなら、スグに逃げなければ、「目には目を」の即断で、ドライバーが周囲の取り巻きに殺されてしまうとも言う。この生き方をどのように支持/無視するかは、その国の人たちの宗教観、民族間など様々な背景を含み考えなくてはなるまい。ボクも生きている。彼も生きている。そこに何も差がないはずであるが、なぜか、生きることに対して、彼の方が多大な努力を払わざるを得ない状況にあるのではないかという思いを抱いてしまう。「貧しい生活」と言えば、ある意味 正しいのであろうが、物質的貧しさと精神的貧しさという次元があり、前者の方が他との比較によって比較的容易に判断できる絶対的尺度である一方で、後者はそこに住む人たちによる自分の中での相対的尺度である。季節や天気の移り変わりの中で、それに順応し逞しく生きていく姿には、生きることへの どん欲な精神の血潮を感じることができる。
ベンガルの価値観を尊重しながら、聴覚障害児教育をどのように支援したらよいか、学校教員の平均的月収が 2000タカ(1タカ≒2.5円)という経済的環境の中で、Audiologyという学問が、どう生き様の保障をなしえる可能性があるのか。この1週間で私になりに考えていきたいと思う。
3月17日
早朝6時頃に暑くなり目が覚める。サーキュレータのスイッチを入れ、再び睡眠。8時起床。体調は良いとも、悪いとも言えない感じ。9時に朝食。こちらの水は井戸水だそうで、水質自体は良いものらしいが、水道管に問題があり、途中で不純物が混ざる可能性があり、そのままの水は飲むことができないと言う。20分ほど煮沸した後にさました水を飲む。持病の花粉症は、そもそもアルゲンがないからか発症せず、鼻の調子は良い。しかし、念のために抗アレルギー剤を飲む。
ドライバー氏と共に近くのマーケットに行く。イモ、トマト、かぼちゃ、モロヘイヤ、豆類、バナナ、スイカなど実に豊富。さらに川魚、特に大きなフナ、鯉系統の魚や、ウナギのような魚、さらにこうした魚の乾物、穀類も売っている。価格がどのくらいかはわからないが、その量と多種さには驚く。肉類では店頭で生きた鳥を売っており、その場で羽を取り処理してくれる。その他、生きた山羊、捌かれた山羊などが売っているが、肉類の販売はとても衛生的とは言えず、少々のためらいを感じる。さらに家具、自動車部品、音楽テープ、印刷屋、はんこ、看板、流しなどのキッチン建具などなど、とにかくあらゆるものが売られている。2年ほど前、パレスチナに行ったことがあるが、パレスチナで売られている品数の少なさ、量の少なさに驚いた訳だが、例えば、卵といっても数種の卵があり、かつどれも大量に置かれているのを見ると、もちろん、実際庶民が買うことができるかどうかと言う経済的問題もあるのだろうが、「ものがない」という逼迫した状況にはないように思えた。
阿部さん来居。一緒にそうめんの昼食をいただく。ヤマキのめんつゆ、ワカメ・のり付きと言えば、これはもう日本の昼食そのものである。阿部さんは東京の恵比寿にある電子部品製造メーカーの方で、携帯電話用のクリスタル発振子の製造をバングラデシュで始めたものの、日本国内での携帯電話機価格の低迷により海外での製造に見合う設備投資が非現実的となり、現地工場の撤収始末をやっている。見た目、30歳代前半という感じだが、幼少の頃、バングラデシュで暮らした経験があり、ベンガル語を巧みに扱い、また、落ち着いた感じがする好青年である。我々が昼食を終えた頃、萩原さん来居。萩原さんはベンガル人と50%づつ出資した自動車修理工場の社長である。この荻原さんは、ベンガル人宅に居候中だそうで、毎食のカレーに飽き、要するに日本食を頂戴しに「柴田食堂」においでたという感じ。40代前半という感じだが、社長という堅さがあるわけではなく、技術者という真面目さでもなく、ただ「ベンガル人でもベンガル人を信じない」社会の中で、ベンガル人を信じて企業経営をしているという お方。
3時にグローバル・リンク・マネージメント(株)の中村千亜紀さんが来居。JICA関連のプロジェクトを遂行するに当たり、そのマネージメントがお仕事。インドの大学に2年間留学して「児童労働」について研究活動を行った経験を持つ。柴田さん、畑先生、私、阿部さん、荻原さん、さらに中村さんが加わり、自動車で市内中心部のゲストハウス(民宿とペンションの中間のような宿泊施設)に向かう。ゲストハウスで(財)国際開発センターの阿部喜美子さんと合流する。阿部さんも中村さん同様、JICAの関連でバングラデシュにおける援助活動について調査を進めている「研究員」。このゲストハウスに滞在中の小児科医 山田先生の部屋で、児童労働についてディスカッション。ディスカッション開始後、日本赤十字社から派遣の大岩先生も加わる。中村さんが、バングラデシュにおける児童労働についてユニセフでのヒヤリングを報告することからディスカッションが始まった。児童労働における問題点は理解できるが・・・と思っているところで、荻原さんが「NGOは問題が生じている一部分を指して、問題だ、問題だと叫ぶけれど、本人も納得した上での修行を児童労働とみなされたりしている例もある。児童が働きに出ることで家族の食い扶持が減り、あるいは家族が支えられているという経済、児童労働を禁止したとしたら、仕事場から追い出された児童はどこが受け皿になるのか等々、社会システム全体からの視点で見る必要がある」と発言。私はむしろ、荻原さんの考え方に納得する部分もあった。ディスカッションでは、宗教の違い、ベンガル人の上昇志向のなさ、それを形成した教育やカーストまでは厳しくはないが身分制度、インドとベンガルの宗教観の違いなどなど様々な意見や考え方が聞けて、大変参考になった。
左から
中村さん、畑先生、柴田さん
阿部さん、山田先生、荻原さん、私。
|
帰路、インド料理店でカレーのご馳走を頂戴する。ナンとカレー、タンドリーチキンの他、サワラのような白(海)魚のスパイス揚げを頂戴する。いたって美味。特に、サラダ用に付くものなのかどうかわからないが、スパイシーなネズミ色のつけだれが、ねちっこくなく、カラッとした辛さ、と言っても何となく甘みも感じる味がして、魅惑的。白魚の唐揚げもスパイスの使い方がスパイシーだけど上品であくどくなく、美味。
ダッカハウスへの道程で、ダッカ1を誇る日本企業建築のホテル前交差点で、バラを売る子どもに車をたたかれる。法律で児童労働を禁じても、実際、「生活」=生きることが優先される。背景には「バラ組合」のような組織があり、そこに雇われた子どもたちが路上に立つ。そこには搾取の構造もあるのだろうが、その賃金や違法性はとにかく、そのことで、その子どもたちは毎日、飢えることなく食べていけると言う最低限の生活が保障されている。日本円にしたら、1本10〜20円の花なのだろう。我々にとって、その花を買うことは痛みを感じることではないだろう。だから買って、その売り子の生活を支えることもできるのかも知れない。しかし、それが習慣となり、外国人にタカることが生活の糧になるようで良いのだろうか? お金はそのときに救いや甘さを与えるかも知れない。しかし、永遠にお金が得られる保証はない。であるならば、お金を与える際には、よほど慎重にお金の与え方を考えなければならない。ベンガルの教えの中には、富む者が貧しい者に施しを与えるのは当たり前のことであるという考え方がある。ゆえに路上の乞食に食を与えても、その者は「ありがとう」という言葉を発しない。ある意味で、この思考は多くの人間を救ってきた。しかし、与えられることを漫然と受け入れ、そこに感謝も気まずさもなくなってしまっては、人は上を見る努力を失う。バングラデシュにあふれるNGOは、実はバングラデシュの人々にとって一番の安定雇用主になっている。日本のオバチャンたちが老後の時間を費やすために、「かわいそうな人たちに何かをしてあげよう」と乗り込み、文化や背景を抜きにして、お仕着せのボランティアを施す。あるいはNGOが最貧困の層である底辺の人々に届く援助をすることも、もちろん必要なことでもあるのだが、実はバングラデシュの人たちが自らの力で、自らの価値観のもとで、社会を築いていくという時間のかかる作業の遂行に影響を与えることもあるのかも知れない。こんな印象を持った。
時間は20時、縫製会社から帰宅する若い女性たちで、交差点が混雑する。彼女らには、帰宅後、家事が待つ。宗教的に女性が外に出ることが好まれず、ゆえに例えば晩飯の買い物は男の仕事となる。バザールでは「定価」という概念がないため、男同士が集まって話す話題は、自然と「今日、どこそこで買った○○は、△円だった」という話になるという。このような話題が社会の定価を形成していくらしい。
「援助をしてあげる」ではなく、「その国の生き方や文化を踏襲して、共に生きるための作業を共におこなっていく」という姿勢を今日の出会いから学ぶことができた。実はすべて柴田さんの考え尽くされた素晴らしいコーディネートではなかったのかと後日、想い直した。支援は、まずは、その国の実状を知ることから始めなくてはならないのだと。
3月18日
World Concernのオフィスを訪問。総責任者の Dowa氏、HEARプロジェクトのSalam氏などと挨拶。次に HiCareを訪問。ここは、World Concernとは異なるNGOが運営している施設で、聾学校部とHearing Centreに分かれている。マンチェスター大学で Ph.D.を取った ここのAudiologistである Nirafat Anam女史に双方を案内してもらう。聾学校部は生徒数85人、15クラスで、2歳半〜15歳の子どもが通っている。子どもたちの多くがREXTONの耳かけ形補聴器を使用しており、1クラス4名程度の学級で、それなりに整っている感じを受けた。Hearing Centreには2つの防音室があり、Interacoustic社製のオーディオメータAC30を備えている。特性検査装置はFONIXのFT40を使用している。Hearing Centreでは、イヤモールドの製造を行っている。印象剤はイギリス製(?)でベース剤にチューブに入っている硬化剤を加えて固めるものを使っている。次にワックス(ろう)に漬け込み、石膏で凹型を作る。固まった凹型にアクリル系の原材料を入れ、空気抜きをし、1時間煮沸して取り出し、最後に成形するというステップで製造している。おもに外耳道部はソフトで、それ以外の部分はハードで作る「コンビネーション」タイプを製造している。製造方法は、昭和30年頃の方法であり、まぁまぁ使えるようなものができるが、最後の研磨の過程が悪いのか、全体的にゴツゴツとしていて、いかにもハウリングが止まりそうにない感じがする。しかし、こうした消耗品を自国生産できることは重要なことで、HEARプロジェクトもここのイヤモールド ラボにお世話になっている。基本的なシステムは構成されているので、新しい材料への切り替えや、最終の研磨作業にもう少し熱を入れる必要があると思われる。基本的な聴力検査は可能だが、補聴器装用時閾値の測定は、過去に数例測定したことがあるという感じで、日常的な測定項目にはなっていない。「装用閾値を測定しているか?」と質問すると、「ハイハイ」と測定結果が記入されているオージオグラムを見せてくれるが、裸耳で110dBぐらいの子どもなのに、装用閾値が30dBといったように非現実的な結果を私に見せるということからも、いかにも日常的な評価項目にはなっていない。そもそも「評価(evaluation)」という用語が理解できず、「検査(test)のことか?」と聞き直されてしまう。語音検査のための「録音された語表がある」ということだが、ついに最後まで、それによる検査結果を見ることはできなかった。語音検査と言語検査とが混同して理解されており、「言語理解を検査するのではなく、語音聴取可能性のための検査のことを私は言っている!」というようなことを伝えなくてはならなかった。実耳での測定は、FT40のREMオプションはなく、ドネート先に発注中だという。補聴器のフィッティングは、「もう一人のオーディオロジスト Kaniz Fatema女史の仕事だ」ということで、その方法を聞くことができなかった。学校の生徒の発音や教師の呼びかけに対する反応から感じるに、補聴器の調整状態は一般的に良くなく、まれにそれでもうまく補聴器が合ってしまう例があり、それがSTAR PATIENTになっているという感じを持った。とりあえず、フィッティング法を除いて、一応の検査方法は学習されているが、それらが実際の子どもに対して生かされていないという印象を受けた。その他、Anam女史はダッカ大学の障害児教育教員養成課程で講師をしているそうで、愛媛大学のシステムと比較するなど情報交換をした。
オフィスに帰る途中、World Concernが運営している普通小学校を見学する。どのクラスもぎゅうぎゅう詰めだが、子どもたちの「学ぼう」という目の輝きを見ることができた。学校は英語・算数・ベンガル語などが学習の中心であり、音楽や美術、体育など芸体系や、理科・社会などについて不十分さも感じられた。学校に校庭がないのはいかにも寂しい。しかし、午前・午後の2部制での授業、学びたい子どもの数に対して、学ぶことができる数は少なく、必要最低限の教科について、必要最低限の内容を履修するというシステムは現実的でもある。
オフィス帰着後、ベンガルのカレーを頂戴する。チキンとかぼちゃのカレー双方とも、スパイスがバランス良く使われており、想像以上に辛くなく(むしろ、かぼちゃの甘みが出ていて)、美味しい。ダール(豆)のスープも美味だが、こちらはむしろスパイスが入れられていない分、味が弱く、せめてもう少し塩を入れてほしい感じ。唐辛子を噛む。奥歯で噛むとピリリと辛さが付く。このカラッとした辛みにも芳醇な味があり、カレーと実に良く合う。ベンガルカレー万歳。食後、バナナを頂戴する。日本のバナナは青い時に船に乗せ、輸送中に黄色く熟す訳だが、こちらでの完熟バナナは甘さが格段に豊かで、実に美味しい。あぁ完熟のバナナ、この豊かさよ!と恵みに感謝する。
20時、シンガポール産のビールを頂戴する。暑かった一日の終わりによく冷えたビールは格別である。市内ではアルコール類を購入することはできない。政府機関関係者には酒類購入用のパスが渡されており、このパスを見せないと酒類の購入はできない仕組みになっている。それだけに、今日のビールはありがたい。
21時、停電。天井のシーリングファンはおまけと思っていたが、ファンが止まると意外に体感温度が上がってきて、いかにせん暑い。それならば夕涼みと思い、一人で外出した。家庭用電気は停電でも、街路灯はついているし、豪邸が続く一帯では自家発電装置が動いていて街が明るく、治安面での不安はない。帰宅途中の人たちがバスに乗り込む前に屋台で腹ごしらいをしている。屋台には小さなじゃがいもを炒めたものや、焼きそばのように見える野菜炒めのようなもの、小さな蒸しパンのようなものなど多種多様のFast foodを見ることができた。星を見ながら、と言っても、古いエンジンを積んだ車やベビーからの排気ガスのためか空気がよどんでいて、星はそれほど多く見ることができないが、トボトボと歩いていると、リキシャが「乗れ」と呼びかけてくる。屋台をのぞけば、「食え」と言われる。ベビーの鈍いエンジン音、クラクションの喧噪、そして、この暑さ。しかも10時近いという夜に、営業している人の多さ、まるでここは銀座か新宿か、とでも思いたくなるほどである。近所をゆっくり歩いて帰宅直後に停電が解除されたようで、家々の明かりが付く。そしてバングラの夜がふけていく。
明日は、金曜日。こちらの祝日にあたる。事務所等が休日のため、明日は何もできないので、目覚ましを8時にセット。
3月19日
起床後、朝食。ダッカ暮らしも予定の半分が過ぎた。
恵子さんと畑先生は、車でお買い物。私は、近くのバザールに買い物にでかけた。金曜日でもここは庶民の胃袋。前に訪れたときと同じように喧噪の渦である。買い物は男の仕事。でも、何を買うのかの決定権は女性にあるのか、市場の半分ぐらいの男はなにやらメモらしきものを持っている。ピーマン、インゲン、ネギ、ししとう、モロヘイヤ、唐辛子を購入。こちらはベンガル語がまったく話せないし、相手も英語が話せ
ないので、欲しいものを取り、いくらかという素振りをする。すると相手がベンガル語でなんとかかんとかという ふっかけた値段を言ってくる。そこで、とりあえず、手で5と示して、5タカか?と示してみる。だいたい不満そうな顔をするので、10タカ出す。相手が納得したら、同じものを少し加えてみて、「OKか?」と聞くと、だいたいウンとうなずく(首を前にこっくりとするのではなく、こちらでは首を横に傾けたら、了承したとの意味になる)。負けさせるという値段の交渉はできないけど、それではしゃくにさわるので、「量をもっと頂戴ヨ」という訳。買い物をしていると、頭にざるを載せた小さな男の子が寄ってくる。最初はなんだかよくわからなかったが、要するに「買ったものをここに載せろ、俺が運ぶ」ということらしい。自分の買ったものぐらい自分で持つワイと、無視するが、それでも付いてくる。向こうから来た男は、そう5kg以上も山積みにした野菜を運ばせている。はは〜ん、この量だったら運ばさせるかも知れないが・・・。私はここまで10分ほど歩いてきている。さて、どこまで付いてきて運んできてくれるのかなぁと疑問を持つ。これは後日、解決。ここで運ばせるような買い物をする人は、市場に車で来ている。だから、車まで運んでくれるらしい。市場の奥の鮮魚売り場に行く。先日はお目にかかれなかった長さ3cmほどの小さな白いエビが並んでいる。おじいさんが、小さなアルマイトの皿に、エビを3匹と10cmほどの魚を3匹並べている。何を作るのか知らない、いくらするのかも知れない、何人でこれを食べるのだろうか・・・・、帰りを待つ家に向かうおじいさんの背中を見送った。
帰宅後、2人のお手伝いに説明しながら、うどん打ち。市場で仕入れた野菜は千切りにする。お二人の帰りの時間を見計らって、うどんを切り、野菜はかき揚げにする。モロヘイヤの天ぷらというのを初めて作ったが、モロヘイヤ独特の粘りもくせがなく、美味しく揚がる。うどんももちろん白いうどんにはならないが、コシのある讃岐うどんに仕上がる。水で冷やして、かき揚げ、モロヘイヤ天ぷらを食べる。ネギに少々唐辛子を入れたら、唐辛子が効きすぎて、私はちょうど良かったのだが、畑先生が少々むせる。申し訳ない。
一休み後、徒歩でみやげ店「アーロン」に向かう。ベンガル独特の刺繍「ノクシカタ」2枚と絵葉書を購入。4階の窓からは国会議事堂と議事堂前の広場が一望でき、絶景。帰宅途中、喫茶店のような店に入ろうと思い、店に何があるかとのぞいたところ、先方もこちらをジロジロと見るので、入りにくくなってしまい、パス。でも一度は行ってみたい。
身支度を整え、3人でミーナ・マラカール女史の私邸を訪問する。医師の資格を持ち、現在78歳の女史は、バングラデシュの2つのNGOの創始者であり、World Concernの初代総責任者でもある。今回、バングラデシュに来たことのご挨拶と、明日からのマイメンシンへの訪問計画などを話す。今は現場からは退いているが、現場への思いは遠ざかっておらず、ボリシャルに日本の援助で建設計画中の普通幼稚園+聴覚障害児通園施設について、急がずに進めるよう、Dowa総責任者にアドバイスして欲しいと言っていた。かくしゃくとした まさにGrand Motherで、あぁこういう人が必要性を説いていけば、NGOが前進していくなぁと思える人物である。17時帰宅。
写真:左から、筆者、畑先生、マラカールDr.
|
19時、日本からの定時連絡。私宅のポストがあふれているだろうことを思う。
明日は、7時にここを出てマイメイシンに向かう。こちらに来て、メインの仕事の前の日程に余裕があり、日本にいるときに比べて、ゆっくりした時間が取れている。暑いので、詰めて仕事をすると体が持たないが、改めて、本務への義務をたたきこむ。
3月20日
マイメイシンへの道程、約半分のところで事故。こちらの道路は町の出入口のようなところ所々に隆起があり、車のスピードを緩めるように指示をする。この隆起に80km/hのスピードのまま突っ込み、車体が上に持ち上がった時に、前輪が下にはずれるような感じで、車体と前輪との間のベアリングがはずれて走行不能になる。着地時の衝撃で左頭部を打つが痛みが持続するほどではない。最初はシャフトが折れたのか思いドライバー氏から、「ここから10マイルのところに修理工場がある。私とサラームが修理工場に行く。この間、車のところに誰もいなくなったら車を持っていかれかれないので、車で待っていて欲しい。修理人を連れてくることができたら、我々はバスでマイメイシンに向かおう」との提案を受ける。サラームが通りすがりの車にヒッチハイクを呼びかけようと準備している間、「本務を全うせず、ダッカに戻るなんてことになったら大変だなぁ」と思いながら、車軸を何となくいじってみると直りそうな感じがする。故障個所つまりベアリングがはずれたところを元に戻せばいいのである。レンガを借りてきて、これで車体を浮かし、ジャッキを取り除き、このジャッキを車体とシャフトの間に挟み、シャフトのアブソーバを下に引き下げ、ベアリングを挟み込んだ。無事完了。ドライバー氏は安堵の表情だが、とりあえず30km/hほどで、その10マイル先の修理工場まで自力で走ることができた。単純なスパナでスルスル分解し応急措置をする。この間、車中の畑先生が扇子で扇いでいるのが珍しいらしく、近くの男や子どもが十人ほど集まってきて、車内をジロジロのぞく。30タカで応急措置は終わる。シャフトと車体の間にベアリングが脱落しないようにしてあるスペーサー2ケのうち1ケが破断していて、これは修理不可能とのこと。この応急措置でマイメイシンまでは向かえそうなので車を走らせる。先ほどまで神風ドライバーはどこへやら、安全運転が続く。
11時、マイメイシン聾学校に着く。早速教室の案内を受ける。5クラスを拝見。どれも小人数制で先生もそれなりという感じをうける。教室内の掲示(子どもたちのオージオグラムや絵、詩)も良くできている。私は先生から普通より少し早めの早さで、普通の口型で話しているのが少し気になった。この件は昼食時に畑先生と、ディスカッションをする。
オーディオロジールームを拝見する。オージオメータはAA61BN、インピーダンスオージオメータRS30を所有。61BNは、SISIやBEKESYができるが、標準では110dBMAXだし、音場スピーカ用アンプも載っていない。その他、騒音計、インファントオージオメータを所持している。子どものデータがどのようにファイリングされているかについて、サラームは知らないようで、今後の課題だと思う。また補聴器特性検査装置がなく、補聴器の周波数特性を取ることができないと言うのも問題だ。
ここで昼食。先生方といっしょに魚、カボチャとイモのカレーを頂戴する。こちらのカレーは、タイやスリランカのカレーと違い、ココナッツミルクを使わず、水で焚くので、どちらかといえば日本のカレーの味に近い。日本のカレールーのように小麦粉を入れず、カレー粉のみで味付けするので、日本のカレー独特のどろっとした感じはなく、さらっとした感じのカレーである。魚の名前を聞いたが、日本名は不明。およそ体長 40cmぐらいの白身の川魚で、ちょうどフィッシュフライに使う魚のように身がサクサク取れる感じの身で、カレーに合い、美味しい。
教室のひとつでミーティングを始めた。最初に畑先生から授業に関するコメントをしていただいた。次に私の方から補聴器装用状態をいかに評価しているか質問をさせてもらった。返ってきた答えは、『「聞こえますか?」と聞き、「ハイ」と答えが返ってきてくるかどうか』であった。これは問題。そこで、装用閾値の話をすると、話は聞いたことがあるが、やったことはないとの返事なので、オージオグラム、スピーチレンジ、装用閾値の関連性について説明する。この際、右下がりの装用閾値の場合、「母音は聞こえるが、子音が聞こえない」と説明すると、一騒動。「子音が聞こえる子と、聞こえない子にクラスを分ける必要がある」というのである。難聴クラス、ろうクラスという分け方にはそれなりの合理性があると思うが、その前にもっと補聴器を調整して、子音の聞こえについて可能性を追求する必要があること、子音の聞こえ方がすべてではないことを説明する。そこで仮にレストランのレシートとペンを持った状態であることを説明し、私が英語でなんと言っているかを当てて欲しいと言い、子音の部分を母音化して「sign up here」と言ってみた。そこで、それぞれに考えを聞くと、『「うーん、高い請求だ」と言っている』という答が返ってきた。これはカードを利用していない人に対しての例の出し方が悪かった。次に通訳の真美さんにお願いして、「机の上の物の名前を言うから、それを指さして」と指示し、子音をごまかしてベンガル語で言ってもらったが、一向に指さししてくれない。それも真美さんの発音は私が聞いても子音が出ているにも関わらずにだ。やはり、こちらの意図が伝わっていない。次に畑先生が日本語で「先生」と言い、でも、子どもが「てんてい」といっても わかると話しても疑問顔。どうも、「曖昧に言った言葉から、なんと言っているかを想像して指さして」という指示が伝わりにくい。体験的な方法で伝えることをあきらめ、とにかく、音声には、子音・母音・イントネーション・アクセント・リズムなどがあり、ある子音が聞こえないからと言って、すべて方法を変えるのではなく、総合的に「聴く」ことを話す。
この間、こちらが説明している間も、先生同士で勝手に話しを始めてしまい、収拾がつかなくなるうえに、先生同士の話がどんどん変な方向に進んだり、全然、今の話題と関係のない話に飛んでしまうことがあった。こちらがベンガル語が全く理解できないので、真美さんに「今、先生方は何を話しているの?」と聞くと、ある先生の話している内容を通訳してくれる。すると今までの話題と関係ない質問が出てきたりすることがある。こちらの話の最中に「わからない」とはっきりと言ってくれることはありがたいが、こちらの思いと違う方向に脱線したまま、話が展開してしまうことがあり、少々切れる。一息ついたところで、真美さんから『「4人のベンガル人が集まって話を始めると、5つの結論が出る」と言われていますけど、ベンガル人の会議はいつもこうしたことが起こるのですヨ』と聞かされると、こちらの怒りはすっかり収まり、これも「郷には入れば郷に従え」で、こちらが慣れていくしかないかとスッキリと腹をくくる。
次にフィッティングの話をする。ファンクショナルゲインあたりまでは付いてきてくれたという感じがしたが、カプラゲインとの関係などの話になると、こちらの言っている意味が伝わっていないなぁという印象が強くなってくる。騒音計とインファントオージオメータで補聴器の「ゲイン」の意味を説明するが、この辺の概念は、やはり補聴器特性試験装置をいじりながら、体で覚えていく部分もあると私自身も思っていて、伝達に限界を感じてしまう。
さらに語音検査の話をする。テープやCDといった再生装置がないので、ライブボイスによる検査を提案する。パラメータは、男性声/女性声、very soft/soft/normal/loud/very loudといった声の大きさ、audio/audio+visualという提示条件、aided/unaidedとの補聴器装用/裸耳との設定。語表は、一音節単語4語、二音節単語4語、三音節単語4語の計12単語で、これも真美さんにお願いして、サラームと一緒に、絵にしやすく、子どもに親しみのある単語を選んでもらい、急遽、作ってみた。ベンガル語の音は日本語の音に似ていて、子音+母音という構造が多く、また母音も6母音+長母音という感じなので、語表を作る上で、音節というパターンが利用できる。一応、原理は説明するが、何とも頼りない顔つきなので、明日、デモンストレーションをしましょうということで、今日は収める。
教室に掲示してあるオージオグラムに ABギャップが70dB以上もあるようなものがあったので、このオージオグラムに疑問を感じないか尋ねてみる。知識として知ってはいるが、それが実際に生かされていないような印象を受ける。子どもが装用しているポケット形補聴器のイヤホンのところに、別のポケット形補聴器を「T」の状態で近づけ、音を聞くと、子どもが聞いている音を聞くことができるという話をする。幼児聴力測定の装置について、説明をする。今は、いわゆるペグ差し法を行っているが、やはりこれだけだと幼児聴力測定は困難である。そこで、VRAとVRAの装置を使ったピープショーの方法について、装置の作り方を含めて話をする。先生方より、インピーダンスオージオメトリの結果の活用法を質問される。聞いてみると、結果が何を意味しているかわかっていなかったらしい。そこで、中耳炎の起源から「インピーダンスオージオメータが測っているもの」を説明する。しかし、地元には中耳炎や鼓膜に穴が開いている場合に対し、十分な治療が行われていないようで、ティンパノメトリの結果がどこまで活用されるか疑問が残る。中耳炎が放置されたことによる難聴も考えられるわけで、特に聴覚障害児の聴覚管理上の問題を含め、医学的治療が行き届いてない問題を痛感する。
18:30、初めてのリキシャ経験をしながら、カリタスゲストハウスに向かう。リキシャに乗ると視点が高くなり、町の景色が変わる。思った以上に清潔な宿舎なので感動。夕食はチキンカレーとキャベツのカレー、サラダにダールスープ。キャベツカレーは生まれて初めてのカレーだが、意外とカレーとして美味しくいただけるので、ちょっと驚く。蚊が多く、蚊取り線香を焚き、蚊帳の下で眠る。ちなみに、バングラデシュにも蚊取り線香は存在し、サラームによれば、「木の皮から生成した成分で作る」そうだ。
3月21日
7時に朝食。サラーム氏が朝食を用意してくれていた。パンとオレンジジャム、バナナ。そうとは知らず、他のテーブルに置いてあったバターを持ってきたり、バナナを残したりと少々失礼をする。サラーム氏は良く気が回る人で、朝食を食べながら、プライベートを紹介しあう。それによれば、彼はイスラム教信者で、42歳、2児の父であるという。ベンガル人の年齢の推定は難しい。
ドライバー氏が車に乗って待っており、それによれば、車の修理はマイメイシンで可能であったこと、1200タカほど修理代がかかってしまったとのことである。サラーム氏は、思わぬ出費に曇り顔で、ドライバー氏に説明を求めていた。それによると、ベアリングの脱落防止用リングを何とか調達したらしい。どうして、こんな田舎にトヨタの自動車部品があるかは不明だが、とにかく直ったということで、一安心する。学校に着くとすでに子どもたちも教師たちも揃っていて、朝礼が始まるところだった。いつもの、電池チェッカーとステゾスコープによる確認の上に、昨日説明した Tスイッチにしたポケット形補聴器をイヤホンに近づける方法によっても確認をしてみる。どれどれと思い、近づいてみると、なんと「M」の状態で「聞こえる、聞こえる」と言っている。早速、もう一度「T」で聞くこと、子どもの補聴器のマイクに向かって話すことを確認する。昨日、あんなに納得顔であったので、わかったと思っていたのだが、説明が実体験に基づいていなかったなぁと反省する。続いて、オーディオロジールームで音場聴力検査用のスピーカをセットしようとしてオージオメータの電源を入れる。しかし、まず、電圧のスタビライザーの電源を入れ、2〜3分待ったら、220→100vの変圧器の電源が入るという。また、変圧器のキャパシティが小さく、オージオメータとインピーダンスオージオメータの双方を電源ONにする事はできないとのことである。使えるようになるまでが結構大変だ。ようやく、電源が入ったと思ったら、メータが故障していることに気付く。出力を微調整するためのメータ横の調整ノブを回してもメータの動きに変化がない。これでは出力レベルの調整ができないではないかと目の前が真っ暗になる。騒音計で較正しようと思っても、値がわからない。インファントオージオメータを使おうとも、誤差が大き過ぎよう。取りあえず、HiCareのオージオメータと並べてみて、出力音圧を比較してみて、そこで調整ノブを固定する方法を提案する。しかし、将来的には、日本に送って修理をするか/故障状態をメーカーに伝えて、交換部品のみを送るかのどちらかの方法を採らざるを得まい。 私のサムソナイトのスーツケースがへこむほどの荷扱いでオージオメータが運ばれたら、それこそ故障が拡大するのは間違いなく、おそらく後者を選択せざるを得まい。
オージオメータの話をしていたら、SISIとは何かということで、リクルートメント現象が始まり、SISIの原理と検査方法を話す。音場検査は単純にAIR出力にスピーカを接続しただけのものなので、音圧が70dB(A)ほどしか出ない。しかし、それなりに音が出るので、デモンストレーションは可能だ。真美さんにお願いしていた語表も完成した。クレヨンで描いてくれたので、子どもにはわかりやすい。「デモンストレーションをする」とサラーム氏に伝えたところ、「それでは教師全員が参加したいので、授業を切り上げる」とのこと。少々、大げさになってしまった。
早速、2名の子どもが部屋に呼ばれた。最初の子どもの補聴器を見て驚く。まず、2台の補聴器ともスイッチが入っていないのだ!。頂戴していたオージオグラムによると、右が良聴耳だというので、右で装用閾値を測り始める。しかし、音がなくても手を挙げるし、音があっても手を挙げないといった感じで、反応に確実性がない。そこで、補聴器のボリュームをハウリング限界まで上げるが、結果は同じ。補聴器の音を聞いてみたら、聞こえないのだ。電池がないことに気付く。では一体、朝の補聴器チェックは何だったのか? 左側に装用している補聴器の電池はパワーがあるようなので、入れ替えて試行するが、結果は同じ。こちらではオージオメータのインタラプタスイッチを押す手の動きを子どもが見られないように、検査者は子どもの背中を見て検査する習慣があり、これは問題だと指摘する。とりあえず、閾値らしいものはほとんど得られなかった。手元のオージオグラムでは70dBになっており、おそらく、通常の聴力検査がきちんとできていない/つまり、子どもが聞こえた振りをすると、その「振り」を見抜けていない。できあがったばかりの語音検査をしてみると、読話+聴覚条件(大きな声)ならば、9割方正解するが、聴覚のみ条件では、音節数の異なる単語を指すなどランダム反応になり、チャンスレベル以下の結果となる。つまり、音のプロソディック情報さえも補聴器を通して耳に届いていない。と言うことは、明らかに70dBとのオージオグラムは誤りであり、補聴器のボリュームを最大近く(おそらく60dB程度のゲインが出ている)でも、あの音場での反応ということから、かなり重度の難聴を予想する。
2番目の子どもはおとなしそうな子どもで、聴力的にも頂戴したオージオグラムに記載されている70dBというのが信頼できる発音をしている。しかし、発音明瞭度は良いとは言えず、特に子音部の音が発音できていない。このことから、補聴器が低音重視になっている可能性を疑う。音場検査をすると、下から50・50・60・70・70dBという感じで、予想がほぼ的中。そこで、子音分は高音域にある。だからこそ、高音部を強調した特性がより推薦されると言う話をする。次に語音検査。Aのみ soft条件、つまり、口を隠した状態で比較的小さな声でもほぼ100%弁別が可能である。今回、単語リストが、一音節・二音節・三音節の各4単語なので、このくらいの装用閾値だと、長短で音節数はわかり、チャンスレベル25%であり、かつ、比較的弁別しやすいように母音が異なる語をできるだけ選んだための好成績だと思う。今後、単音リストや三音節単語のみで12単語などの語表を作っていく必要があるだろう。昨日までのおさらいをする。音場検査と語音検査で補聴器の効果を測定することの重要性を再確認する。とにかく、このことの必要性と、その方法だけは、今回の最大目標として学習して欲しい項目だと思う。
写真:マイメイシン聾学校の先生と共に
|
すでに2時を過ぎており、遅い昼食とする。ランチタイムをすっ飛ばしても、だれも苦情を言わないほどに、教師たちの熱意は高い。昼食後、ABギャップが異常に開いている例があること、子どものデータを個人・個人でファイリングし、保存すること、ファイル用の表紙の作り方を話す。次に骨導補聴器の紹介。ABギャップが開いている子どもの場合、骨導補聴器の方が有効な場合があると紹介するが、一同「聞いたことがない」とのこと。ここで先生から質問がった。「ABギャップが開いている場合は手術で治療が可能ではないか?」。そうなのだ。しかし、十分な耳鼻科医がいないし、実際に教室に貼ってあるオージオグラムを見ると、ABギャップが大きく開いている例があるではないかと切り返す。一同、納得。さて帰ろうと思っていると、サラーム氏が30分だけ、こちらの主任と話をしたいという。この30分がくせもので、結局、5時近くまで滞在する。
3月22日
World Concernオフィスでマイメイシン校参観について報告する。こちらの語学力のなさが原因で、細かいニュアンスが伝わらず、少々歯がゆい。言いたいことはこんなにあるのに・・・と思っても、舌がついていかない。まして、補聴に関する専門用語も出てくるもので、Mr.Dowaも困惑顔。とりあえず、大枠の感想を述べ、後日、英文レポートを送るということになった。
その後、Mr.Salamと共にJOCSダッカハウスに戻り、持参したビデオを一緒に見る。幼児聴力測定の場面や、聴能室のビデオなど、英語で少々の解説をつけながら・・・。乳幼児の聴力測定の場面があり、Salamが「この赤ちゃんはどこで教育を受けるのか」と聞くので、「聾学校だ」と答えると非常に驚いた顔をした。そういえば、こちらではまだ幼稚部という感覚はなく、日本で言う小学部あたりから聾学校があり、それも年齢がわからない子どももいるし、就学開始が6歳とは限らず、こうした乳幼児に対するケアの話は聞くことができなかったとハッとする。聴覚障害の診断技術、つまり乳幼児時点で聴覚障害だと診断する方法が十分に行き渡っていない現状で、おそらく、多くの子どもが障害を持ちながら、適切な教育を受けられずにいることを思う。この辺の早期発見、早期診断、早期教育の問題は、もう少し長く滞在して、社会システム全体を見据えられるようにならないと、どう進めていけば良いのかが見えてこない。早く見つけて、早く教育を始めれば良いことはわかっている。しかし、それを進める方法論は、机上で済む問題ではない。
Salamに別れを告げる。実に温厚で実に目配りの効く紳士だった。門を出れば、クラクションの喧噪が待つ 今のダッカがある。この社会を創りあげていこうとする気負いは、Salamにはあまり見られない。しかし、今の現実を真正面から見据え、自分に課された課題を実直に解決していこうとする真面目さに、心打たれるものがあった。
空港に向かう車中の中で、こんな話をした。
私「いやぁ、終わってみれば短かったですねぇ」
畑先生「そうねぇ」
柴田さん「でも、お疲れでしょう」
私「いやいや、これから また どっかに行けと言われたら、まだ行けますよ」
畑先生「(飛行機の)チケットの有効期限はまだ3カ月ほどあるのよ」
私「じゃ、行きますか」
ダッカを去る。また行ける機会があるのかどうか、私にはわからない。でも、もし、何か私がここに残せるものがあるのならば、また行ってもいいかなぁと思ってしまった。
最終の報告書は、次号で「バングラデシュ報告(2)」として、紹介します。
このような視察の機会を与えて下さった JOCSに心からお礼申し上げます。
【目次】