実は昨年7月17日〜20日の4日間,ベトナム,ホーチミン市に行き,現地の聾学校を視察,日本の皆さんの善意によって集められた中古補聴器を寄贈してきました。そのときの写真と資料を紛失したと思い紹介ができませんでしたが,意外な場所に置いてあるのとを見つけ,1年以上経ってしまいましたが,ご報告申し上げます。
7月17日
今回,東京のNGO団体,アジア レインボー アソシエーションの関連で,ベトナムの聾学校の参観に行くことになった。主な仕事は,現地の聾学校が補聴器を寄贈するに値するかどうかを判断する。補聴器の寄贈というものは,いくつかの判断が必要になると思っている。1つは,補聴器用の電池を調達できる環境が整っていること。補聴器の寄贈対象となる国では,補聴器用の電池が高価で購入できない場合がある。このような場合に,電池を子どもたちに与えるシステムがあるかどうかということ。2点目は,イヤモールドの製造技術を持っているかどうか,言わずもしれたことではあるが,補聴器の装用にはイヤモールドが必要だが,聴覚障害児の親が購入できる価格でイヤモールドが入手できる環境が必要である。3点目は補聴器の調整や,装用状態の評価ができるオージオロジースタッフがいるかどうか,せっかく補聴器を寄贈しても調整や評価がきちんとできなくては,意味がないだけではなく,費用がかかるやっかいもの,かえって補聴器に対する印象を悪くしかねない。4点目には,修理の技術があり,修理部品の調達方法があること。補聴器の寄贈先となる国は暑い国が多く,そうした国の暑さによって,補聴器は当然,故障する。それらに対処できる方法がなければ,補聴器の継続使用は困難である。
さて,ベトナムの聾学校がこれらの点をパスしているかどうか,今回は,その評価に行くことになっている。
日本とベトナムの直行便は,JALが羽田=関空=ホーチミンを就航しているほか,今春からは,全日空が成田=ホーチミンの直行便の就航を始めた。今回は,就航間もない全日空を利用してのフライトとした。
ベトナム航空のコードシェア便であるためか,ベトナム人と思われる旅客であふれている。ちらっとのぞくと,アメリカパスポート!。つまり,ベトナム戦争時にアメリカに逃れた人たちなのだろうか,そうした感じの旅客があふれていて「満席」である。
21:45,ホーチミンに着陸。気温26度と思ったほどより涼しい。
税関を出て,ちょっと顔が青くなった。なんと銀行がしまっているのだ。財布の中は,日本円だけ,まして1万円札だけなのだ。空港内のインフォメーションで相談したら,少々歩いた場所に両替所があると聞き,荷物を引き引きそこまで行く。両替を終えると私の財布は札束の山!。日本円で2万円を両替したのだが,現地通貨では,なんと! 2,600,000VNDに相当し,最大の紙幣は50,000VNDなので,私は突然と長者様になったような気分になる。すると,どこでも一緒だが,周りに白タクの運ちゃんがまとわりついて,どうのこうのと言ってくる。それをかわし,正規のタクシー乗り場からタクシーに乗る。正規のタクシーはメーターを備えているが,白タクはメーターがなく,言い値でぼられるとガイドブックにかいてあった。さて,正規のタクシーを捕まえ,「Could you please go to Majestic Hotel」と言うと,「Ikura,ikura」と聞き直してくる。どうも,日本語を知っているぞと言いたいらしい。運ちゃんは英語も余り通じないようで,その意味を話すがまったくダメ。ずっと「ikura ikura」それと「sayonara sayonara」の連続。あぁ,日本観光客は,よほどこの2単語を言っているのだろう。
さ,着いて,払おうとしたら,さっきまで動いていたタクシーメーターが,もう空車状態にされていて,料金がいくらかわからないのである。降りるちょっと前に見たメーターでは,「68.00」といった表示が出ていたような気がするが,運ちゃんいわく,90,000VNDだと言う。「え〜!」私は切れました・・・。そのときにメーターは消えているんですよ!。そりゃないでしょ。ホテルの前で運ちゃんとあーだこーだと激論していたら(と言っても,本当かどうかわからないが,運ちゃんは英語がまったく話せないらしい),ホテルのベルボーイがやってきて,通訳をしてくれた。そして,私が国際空港から来たこと,その他散々やりとりをして,70,000VNDでケリが付いた。
もう深夜,いつものように出国時に免税店で買った焼酎を一杯やって寝る。夜は涼しく,外気温は26度ぐらいとしのぎやすい。
7月18日
朝,8:30ピックアップ。こちらはおよそ7〜8時に仕事を始め,12時頃に1〜2時間の昼休みをとり,4〜5時に仕事を終えるという。今日は,盲学校で職業訓練を支援しているNGOブリッジエィジアジャパンのベトナム駐在の日本人 柏木崇さんが付いてくれることになっていた。実は,出発時にわかっていたのは,この「18日朝8:30ピックアップ」ということだけで,そのほかのスケジュールは,この時,彼から聞くことになった。ま,のんびりとした雰囲気だが,朱に交われば何とやらで,これもベトナム流と受けとめる。
今回の聾学校参観を手配してくれた「The Research and Education Center for DisabledChildren」の公用車が迎えに来てくれており,その車で,HOPE聾学校,別名 BINH THANH聾学校に向かう。ホテルから車で約10分。都会の喧噪のど真ん中にある学校である。アジアの聾学校に行くと,多くがそうなのであるが,学校に校庭,グランドというものがない。日本は学校を建てるということを都市計画上,考えて配置してきた歴史があるのであろうが,アジアの聾学校は非常に狭い土地に子どもたちが詰め込まれているという印象を受ける。発音を育てるためには,思いっきり走り,肺の力,呼吸の力を身に付けることが大事だと思うが,そうした思いっきり走ったり,叫んだりということをする環境が少ないのは,本当に残念である。郊外に行けば,広い農地があろうが,それでは通学に不便だろうし・・・。
HOPE聾学校は,1階に3部屋ほどの教室,1つの防音室とその前室,2階にも数教室と校長室兼会議室という校舎に,道路向かいに普通の家を借りている校舎の2つで構成されている。道路向かいには,幼稚部2室と職業訓練室2室の4室がある。
まずNguyenThiThan校長から学校概要の説明を受ける。
Nguyen校長と教頭と校長室で記念撮影
概要:1986年創立の私立校。3歳から22歳までの聴覚障害児130人が在籍。教職員28人(用務員を含む)。非障害児は小学校5年,中学校4年の学制だが,ここでは,小学部7年,中学部6年としている。午前は7:30から始まり,教科教育を中心とし,午後は職業教育(コンピュータなどの情報化に対応している)を行っている。聴覚口話法を中心とし,手話は使用していない(今回の旅行を通じて,ベトナムの手話はほとんど見ることができなかった)。3歳からの幼児教育に力点を置いており,基礎的な言語指導を行っている。幼児段階では保育場面に親が付き添うこともある。早期教育の実施により,23人の幼児教育修了児のうち,17人が普通校に進学した。現在,3歳以下の最早期教育の開始を考えている。保護者の経済的格差が大きく,同じ年齢の子どもに十分なことができないことがあり,就学年齢にずれが生じることがあり,時に7〜9歳児が早期教育を受けることもある。ベトナムでは,聴力障害を4段階に分類しており,T:20〜40dB,U:40〜60dB,V:70〜90dB,W:90dB以上としている。この学校では,1年に2回の定期聴力検査を聾学校教諭が行っており,結果,V段階児が10%,W段階児が90%である。補聴器は以前は,オランダからの援助で給付してきたが,1995年から援助が打ち切られ,自己負担となっている(政府から補聴器購入に関する援助はない)。このため,貧しくて補聴器を購入できない家庭があり,周囲の援助に頼ることが多い。90%が両耳装用あるいは疑似両耳装用(補聴器は1台でYコードで両耳に分けている)であり,残りの10%は補聴器を調達できていない。故障の際の修理は,校内に行えることができるスタッフをかかえている。このスタッフはオーディオロジー部の責任を担っており,イヤモールドの製造,調整も校内で行うことができる。補聴器用電池は学校で販売しているが,家庭によっては,分割払いにしたり,周囲の援助によって給付している。
以上が,校長からの説明。次にいくつかの教室を訪問することができた。最初にオーディオロジー部にお邪魔する。6畳ほどの前室と6畳ほどの防音室がある。防音室には InterAcoustic社のオージオメータがあり,音場での装用閾値検査も行っていた。SPL=HLの理解もおおよそできている。その他インピーダンスオージオメータ,FP40補聴器特性試験装置がある。前室ではイヤモールド製造装置一式があり,UV照射機,研磨機等一通りの作業ができている。イヤモールドの製造技術はリタイアしたオーストラリアのイヤモールド技師がボランティアでベトナム南部に製造器具の寄付と技術指導をしたとのことで,そこそこの製造ができている。アジアではイヤモールドで頭を悩まされることが多いが,こういう目の付け所の良い「聖人」がいるのだなぁと本当に頭が下がる思いをする。オーディオロジー部の資料の内容,保存状況,製造工程のゴミなどを見ると,セクションが実際は動いていることがわかる。どんなに良い機器を持っていても,それが使われていない/動いていない場面を良く見る。これは日本も同じなのであろうが,結局は設備ではなく,そこで動く「人」なのである。補聴器の修理,イヤモールドの製造まで自校内でやっていけているシステム,電池や補聴器の給付なども十分とは言えないが,学校の裁量で,本当に必要な家庭に給付できるシステムができていることなどは,日本では判断が画一的,行政的になっていて,軽度難聴児に対する福祉制度など未整備な部分が多いことに比べると,運営をする側の聾学校の責任が増そうが,日本以上の制度であるとも言えよう。
補聴器の援助は難しい。補聴器を援助した後のこと,つまりイヤモールドが提供できるか,電池が安定供給できるか,補聴器を利用した教育ができるか等々を評価しなくては,単なる一時の「施し」に終わってしまう。聴覚障害児の教育は聴覚活用だけではない。手話による教育もあるわけで,そうした経済的,教育体制的な条件整備が整っていない場所では,積極的に手話による教育を進めるべきだと思う。アジアの福祉の水準を見ると,手話ができても,手話通訳制度がない,障害者に対する社会的偏見,職業選択の制限などによって,最低限の生活が難しい場合や,職業選択上の不利益,自立生活が難しい状況が依然としてあり,特に中等度から準重度の聴覚障害児たちには,条件が整っているのであれば,補聴器の援助をしていくべきかと思っている。今回,尋ねたHOPE聾学校は,そうした条件整備ができている聾学校と思えた。
次に小学部の授業を拝見する。私立ゆえに経済的に恵まれた家庭の子どもたちが多いためか,身なりもきれいだし,ノートも筆記用具もあり,冷房もきいていた。授業は算数であるが,言語が異なるだけで,日本の聾学校の授業と,内容,レベル,子どもの理解度ともに大きな違いはなかった。
続いて,道路向かいの幼稚部に向かった。最初に入ったのが4歳児クラス。若めの先生だが,押さえるべき場所は押さえていて,保育全体としてはまぁまぁ。内容は,数の数え方と数字の読み方といった ちょっと前教科指導的なことだが,子どもはそこそこ付いてきていて,楽しい保育が展開されていた。先生がおそらく「ハイ,次,数えられる人」というような声掛けをしたので,すかさず私は手を挙げ,黒板の前にしゃしゃり出て,日本語で数えてみた。さて,担任の先生はどう対処するかな?,子どもの反応は・・・とわくわくしたが,子どもの方は「あれ? 違うよ?」という感じだったが,担任の先生は,「この人,何をするん?」という迷惑そうな表情で次に進めようとする。まだまだ若い。せっかく,きっかけを作ったんだから,それをうまく利用して,拡げていく度量がない。ま,日本でもそういう時があるが・・・。
次が5歳児クラス。ちょうど給食を食べに向かうために整列しているところだったので,子どもに日本の手話というか身振りで「食べに行くの?」ときく。「ウン,そうだ」っていう返事なので,また日本の手話で「一緒に行く」とすると,子どもたちが騒ぎ出した。また,担任の先生は迷惑そうな表情・・・。ま,少しぐらい給食に遅れようが,いいじゃないの!と,私は椅子に座り込んで,「飛行機で来たよ」に始まり,結局,手遊び歌をして,子どもと大騒ぎをして,30分ほど時間を費やした。担任の先生はもう諦めたというか,最後はそれなりに笑顔だったので良かった(と,私は勝手に思っている)。でも,5歳児の,見知らぬ外国人が来た時の応じ方,何か話したいという気持ち,興味津々できいてくる姿勢等々を見ると,「良く育っているなぁ」と思う。心の中で,「ウンウン,ここまで 育っているなら,いいじゃないの」と思いながら,幼稚部をあとにした。
昼食は,まずカニとタケノコのスープに始まり,ライ魚のさつまあげ,ライ魚のスープ(これは非常におもしろい味で,パイナップルのだしに梅干しを少し加えたような味),菜っぱの炒め物,蓮と鳥のサラダのエビ煎餅和え,エビのライスペーパー巻き揚げと豪勢なもの。食前,食後にお茶と,最後にジャックフルーツ(色の白いキウイ?),ランブーチンがついて,締めて205000VD。約1800円である。二人分で!
午後は,このレポートをまとめながら,今日,学校で頂戴した資料などを整理する。なんだか,観光の余裕がなくて,ホテル缶詰といった感じ。それにしても,水着を持ってくれば良かった!。
夜はカニとコーンのスープ,生春巻き,シンガポール風ライスヌードル,ライ魚の煮込み・・・と,どれもgood。先日,タイのホテル内のベトナム料理店で生春巻きを食べた時,今一だったが,本場はさすが,ウマイ!。これはドクダミの葉を挟むこと,ややきつめに巻き込むこと,なによりもニョクマムとトンガラシのつけだれがあうのだ。絶品!,拍手!。
7月19日
午前中は,「ドラえもん」とのあだ名が付いている現地の方の案内で移動。彼は,京都大学に留学していた経験があり,日本語を話すことができる。京都では建築を勉強していたと言うことだが,こちらでは,マルチコーディネータというか,日本のテレビ番組を紹介したり,タレントの世話をしたりしているとのこと。特に,「星の金貨」あたりがお気に入りとのことで,歌に併せて現地の手話を取り込んだ振りを現地の歌手がするという企画を,こちらのテレビ局に売り込んでいるとのことである。時間に余裕があるときは,今日,向かうべき学校でボランティアをしているとも聞いた。ホテルでお迎えを受け,タクシーで学校に向かう車中で今日,行く予定の学校の概説を聞く。まず,市内のいわゆる貧しい人たちが主に住む地域であることなどなどである。
タクシーで15分ほど走り,いわゆるスラム地区に着く。確かに今までの街とは,ちょっと違って,川の両側にはボートハウスのようなものや,細い角材の上に板を敷いたような家が続き,路肩の排水が薄黒く,特有の臭いが漂っている。
HY VONG QUAN 8 聾学校で校長と子どもたちと
そんな町中の小さな日曜雑貨店のような角でタクシーを止め,角から1分も歩いた場所にHY VONG QUAN 8 聾学校があった。先にも述べたように学校というイメージはまるでなく,普通の家をそのまま利用した格好である。1階は小学生が夏休みの「補習」で来ており,絵を描いていた。どの絵も町中のほのぼのとした風景を描いたものが多く,心の豊かさというか,生活がそれなりに安定している様子が伺える絵ばかりである。校長室も応接室もないようで,そんな1階の部屋の片隅で,TonNuThiNhi校長から学校の概要を聞く。児童生徒70人,月曜日から金曜日は通常授業で,土曜日は絵画製作や音楽をやっている。職業教育として洋裁,服飾を取り入れているなど。しかし,生憎,夏休みなので全員の子どもたちは来ていないということ。
2階には簡単な聴力検査室があるが,学校保有の検査装置などはまったくなく,センターから定期的な巡回があり,そのときに使用される部屋とのこと。日本の難聴学級や難聴児が在籍している通常学校などは,こうしたシステムを取れば良いと思ってしまう。定期的に聾学校のスタッフが移動に耐えられる装置等一式を持ち込んで,必要なサービスを行うという巡回方式は,欧米でも採られている方式であり,特に愛媛のような地方都市では,子どもが聾学校に来るより,子どもへの負担も少なく,専門的指導ができ,かつ地方各局の財政的負担も減る。いつも述べていることだが,私は,市町村,都道府県,国レベルで,特殊教育に支出する財政的負担を少なくし,効率的な運営をすることで,結果として,専門性が高く,きめ細やかな指導ができうる体制ができると思う。100の財政を10づつ10カ所にばらまくより,30,30,30ぐらいの割合で集中的に投資した方が,各ポイントのレベルがあがり,かつ合計負担支出を10%削減できる。「特殊教育経済学」のような学問領域があっても良いようにも思うのだが,いかがだろう。
2階には,中学部,高等部があるが,どれも6畳ほどの部屋で複式学級形態になっており,国土はこんなに広いのに,あぁ悲しき教室の狭さよ!とソプラノで歌いたくなる気分になる。1階の(そもそも普通の家を改造しているので)台所に相当する部屋では,高等部の子どもが美術をやっており,焼き物に絵付けをしていた。「見せて」と身振りで言うと,なんだか恥ずかしそうにして余り見せてくれない。こんなところは,高校生らしいなぁと思ったりする。1階の納戸のような場所には,簡単なイヤモールドラボがあり,普段はここで専門スタッフがケアを行っているという。その他,さらに奥に数台のパソコンがあり,職業教育に利用していると言う。
どの子もそれなりに補聴器を利用していて,小さなイヤモールドラボがあるなど,聴覚的ケアもそれなりに行えている。
総じて,「聾学校の子どもはどこも一緒」という雰囲気で,スラム街の子どもが多いとは言え,そこは街の子。たくましく,かつ社会の中で懸命に勉強をしているという印象を受ける。前日はいわば有名私立。今日は,公立校に近いという感じだろう。
午後は,「The Research and Education Center for Disabled Children:障害児研究教育センター」を表敬訪問。今回の参観をコーディネートしてくれたビン先生に会いに行く。市内から空港に向かって10分ほどのところにセンターはあった。日本の特総研にあたるような施設で,教育相談の受け入れ,現職教諭の研修などを引き受けている。なんとここで,日本人に遭遇。いきなり日本語で挨拶されたのでかなりビックリする。肢体不自由児のリハビリテーションの援助で日本のNGOから派遣しているとのこと。日本のNGOも細かいところまで行くようになっているのだと実に感激した。
センターは増築と改築を重ねたような3階建て。3階が応接室になっていて,そこで所長のビン先生,聴覚障害担当の先生と面談した。ビン先生はかつて聾学校の校長と言うことで,ベトナム,特に南越の聴覚障害児教育の現状とセンターの役割などを説明してもらった。
ここで,日本から持参した補聴器をビン先生に手渡した。ベトナムのイヤモールド製造の状況がわからなかったので,今回は軽度〜中等度難聴用のポケット形補聴器に限定して持参した。どこの聾学校にどのように配布するかは,すべてビン先生にお任せすることにして,補聴器を託した。この環境があり,ビン先生のセンター長としての采配と,元聾学校長としての経験があれば,配分もうまくいくものと思う。先方からの希望は,耳かけ形補聴器の電池であった。確かに耳かけ形補聴器の電池は輸入に頼っているようで,経済的状況,為替等々を勘案すると,購入することは余程の家庭でなければ難しいかもしれない。
障害児研究教育センターで聾学校参観の感想などを話し合う
補聴器を確かめるセンターのビン所長
さらにセンターの中を案内してもらった。彼女は18カ月間,アメリカに研修に出かけていたと言うことで,流暢な英語で恐縮する。聴覚障害関係は検査室の他,教育相談室が2室あり,どこも日本の施設,設備と変わらないものを備えている。午後であり,かつ当日は現場の先生に対する講習会の開催日ということもあり,実際の指導場面を見ることができず残念だったが,「アメリカ帰り」の先生の指導の賜物か,いわゆる言語訓練用のおもちゃが多く,かつ60分〜90分が1単位になっている様子からして,ややトレーニング的な指導なのかと勝手に想像してしまった。センター的な場所であるとそうした指導法が安易に選択されるのであろうが,むしろ,参観した聾学校での指導の方が好印象であった。
さて,今回,仕事の都合等々で往復の交通を含めて4日間という短い期間だったので,ホーチミン市の都市部の2校を訪問することしかできなかった。日本でも東京や大阪の都市部の聾学校を見ただけで全国の聾学校の事情を知ることはできなし,まして交通が不便な国であれば,都市部と周辺部との差は,生活のレベルも教育のレベルも大きな差があるだろうことは予想がつく。そこで,私の感想はあくまでも都市部の2校に限ったことである。
少なくとも,今回の2校は,確かに敷地や校舎や教室の狭さはあるものの,聾教育ができている,あるいは聾教育ができる環境があると思う。それは,何よりもスタッフに,この教育にかける思いがあるということだ。ある教室では(用意された授業風景ではあったが),聞こえにくさに対処した教え方が行われていたし,一方で子どもを子どもとして扱う,障害を持っていようと子どもであるという普通の子どもとの接し方ができているようにも見えた。
街には料理屋がありそうなのだが,結構わかりづらく,昨日は通訳の方に教えていただいたものの,そうでなければ,自分で見つけるのは結構難しい。昼は,飲茶のおいしい店があると聞いたので,そこへ行ってみることにした。一人でタクシーに乗るのは緊張するが,メモを頼りに行ってもらう。タクシーメータは結構の難物で,初乗り「12.00」と表示されるが,これは,「.」がkを表し,つまり「12000」ということになる。目的の中華料理屋には難なく着くことができ,飲茶を楽しめた。これは私にとって何者にも代え難き楽しみである。なんと,食べ放題で6$。どれをとっても絶品で,次から次へと食べてしまう。気づけば,蒸籠の山。それにしても,最後のチャーハンのおいしかったこと!。こちらのご飯は,パサパサの軽いご飯で(スープをかけて食べるのがベトナム流というのが理解できる),このご飯がチャーハンに合うのだ。たっぷりと食べ過ぎで,ちょっと街歩きに。まず最初に World Trade Centerに行ってみる。何かおみやげでもないかなと思うが,ベトナム人向けのデパートで,おもちゃから電化製品まで一通りあるが,私が買うべきものはない。懐かしく思うのは,天井から四隅にまでに付いている扇風機。そう言えば,昔の昔,日本のデパートもそうだったナァと懐かしがる。そこから歩いて,トゥーンサタック百貨店に向かう。ここもデパートで,私が買いたいような郷土土産はない。そもそも,ベトナムの郷土土産とは何だろう?。結局,1階の食料品売場でビール「333」(ちょうど日本の黒ビールのような味で,なかなかいい),ニョクマム(魚醤),ライスペーパーをゲット。重いものをもって歩いていると,ホンダのバイクに乗った人たちが乗らないかと声をかけてくる。もちろん有料なのだが,そうして勝手にもうけていくところなど,とても社会主義の国とは思えない。学校の教員の帳面上の給与は,月8000円程度だが,実生活はそれに見合っていない。つまり,人を紹介し,リベートを取るなどの方法は常識のように行われているといい,公務員の副業も公然の秘密になっているという。今日の午前中はベトナム人のNGOスタッフが付いてくれたのだが,彼は日本で学んだことがあり,なんと私費で留学しているなど非常に豊かなのだ。一方で市内にはスラム街もある。そうした経済面,国が定めた規則を従順に守ること,公務員のアルバイトの禁止,社会保障制度の充実など,実は日本ぐらい徹底した社会主義の国はないのかと思うことがある。
7月20日
午後の成田行きフライトまで僅かな時間で市内観光に出かける。中でも「ホーチミン戦争証跡博物館」では衝撃を受ける。写真では見ていたアメリカ軍による悲惨な,非人間的戦争行為,今も続く爆弾による後遺症の事実などが淡々と展示されている。ベトナム人の生首を並べ,笑顔で記念写真を撮るアメリカ兵,ヘリコプターから突き落とされるベトナム人,黒こげの村人たち・・・・,米ソのいわばベトナム人とは関係のない極めて政治的,独善的,感情的な行為でなぜ,ここまで人々が殺され,後世まで傷や障害を受け続けなくてはならないのであろうか。そして,そうした行為に対して,どこまでアメリカは戦後補償をしているのであろうか。ベトナムが失った人と,年月は取り返しのつかないものであろう。私はアメリカを友好国などとはさらさら思っていない。アメリカが償うべきものを私たちが償う必要はない。しかし,世界で生活している一構成員として,悲惨な歴史を持つこの国に住み人と共に歩めるようになりたいと思った。
付記:今回の訪問でビン先生にお贈りした補聴器の約半分,および補聴器用電池すべては,中国補聴器センターからの寄贈によるものです。記して厚くお礼申し上げます。
NGO紹介 |
私のベトナム訪問を支えて下さったNGOです。
少しの余裕がありましたら,どうぞご支援下さい。
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★NPO法人:アジア・レインボー・アソシエーション
ベトナムでは戦争当時に散布された枯葉剤の影響で多くの障害児が産まれています。そのような障害児を支援するための活動,特にベトナムでは毎年1650人生まれると言われている聴覚障害児への支援を行っています。その他,カンボジアのストリートチルドレンへの支援なども行っています。支援の内容により,A募金,B募金,C募金などの形態も紹介しています。
年会費1口 1000円:所在地 東京都足立区南花畑4-14-1 FAX:03-3884-7513
★NPO法人:ブリッジ エイシア ジャパン
中古の点字製版・印刷機などを譲り受け,ホーチミン市障害児教育研究センターに寄贈したり,視覚障害者の自立のために盲学校の先生を対象としたマッサージセミナーを毎年夏に行っています。また,1998年から知的障害児学校や聴覚障害児学校で行われている料理教室や,聴覚障害児学校の女子卒業生の裁縫技術研修クラスへの支援などを行っています。
年会費はいくつかの会員制度から選ぶことができます。ベトナムへの支援の他,カンボジアにも支援を拡げており,それぞれのプロジェクトに向けた募金も受けています。
〒151-0071 渋谷区本町3-39-3 ビジネスタワー4階 FAX:03-5351−2395
Bin先生からの受取状です。
ホーチミン都市の聴覚障害児を代表して,あなたからの36台の補聴器,83のレシーバ,コードを寄贈という大きな支援に感謝申し上げたい。私たちはこれらを各学校の聴覚障害の子どもたちに分配できることを大変うれしく思っている。ベトナムでは学校でのオーディオロジーサービスは発展途上にある。レシーバやコードなどの補聴器パーツは,聾学校にいる子どもたちに対して,きこえの可能性を向上させるために大きな救いになる。私たちは本当にベトナムの聾児と共有できたことにお礼申し上げたい。私たちは,今後も,あなたや他の寄贈者からより多くの支援が受けられることに期待したい。
障害児研究教育センター長 ビン
【目次】